うららかびより

家族のこと、趣味のこと、その他いろいろなこと

2018年1月14日の面会メモ(生後3ヶ月/116日)

家族3人に加えて、義父と共にファミリールームで面会。

前日ひとりで面会に行った夫いわく、呼吸は安定しているが熱はあったとのこと。お風呂に入れたらご機嫌になったそうだ。木曜日にアラーム音が連発していたときよりも、落ち着いて来たようだ。

面会時間に合わせて呼吸器離脱を始めたピーくん、手足をバタバタ動かし、時々アッ!と発声。魂子の赤ちゃん絵本読み聞かせにじーっと聞き入る様子を見せるなど、積極的な反応を見せた。ゆっくりではあるが自分なりの発達をしている姿に、おじいちゃんも安心した様子。前回会った時は、コードやチューブが沢山ついたピーくんの様子に、「痛々しいねえ…」と心を痛めている感じだったけれど、その時よりはピーくんの病気を受け入れてもらえているのかもしれない。

注入の時間の前に、沐浴。肌着とおむつを脱がせて、担当看護師さんにモニター用のセンサーをとってもらい、酸素を流すカニューレのみ着用したピーくんをそうっと、ベビーバスの中へ入れた。いつもよりびっくりしたような顔つき。少しお湯が熱かったかもしれない。あっ、あったかい!と言わんばかりに目が大きくなり、キョロキョロしだした。

普段呼吸器に繋がれてベビーベッドに横たわるピーくんは、体験できることや感覚がとても少ない。でも、快いとか好きだという感情が育っているのがはっきりとわかるから、ピーくんの沐浴は私にとっても癒しであり、ホッとする一時なのだ。物言えぬ小さな我が子が、痛みや呼吸の苦しみを日々感じている中、一息ついてリラックスできる機会を与える。私にできる数少ない、親らしいことだ。

生まれたときから髪の毛がふさふさで、長くなってきたので、そろそろシャンプーが必要かもしれない。「気持ちいいねえ」「ふさふさだねえ」と、とりとめのない言葉をかけながらピーくんの全身を洗っていった。長湯は体の負担が大きいので、手早くしっかりと洗う。このへん、魂子の時の経験が生きている。

風呂から上がったピーくんをバスタオルで蓑虫みたいにして、優しく押しぶきしてから服を着せていき、綿棒で耳掃除する。ピーくんの耳は18トリソミー児の特徴をよく現していて、小さく複雑な形をしている。ひっそりと咲く野ばらの花のようだ。そんなかわいいところに、クサッとなる汚れをためたくないので、丁寧に掃除した。

ここまではご機嫌だったピーくん、注入の支度をしようとしたところでむずがって泣き出してしまった。サチュレーションの値が下がり、アラームが何度も鳴る。無理はさせられないので、病室に戻って呼吸器を着けることになった。そうなると、入れるのは両親のみ。義父と魂子は会えない。

突然の面会終了に、魂子はショックを受けてしまった。夫が付き添ってピーくんが病室に戻ると、しくしく泣き出した。注入の支度をを手伝うのを、楽しみにしていた。ピーくんが生まれる前、魂子は大きくなった私のお腹を見ながら、「あかちゃんにミルクをあげたい」と無邪気な希望を述べていた。病気がわかり、生後すぐからNICUに入ることになって、その希望はなかなか叶わなかったけれど、前回の面会で注入を手伝うことで間接的に実現したのだ。それで、2回目を楽しみにしていたのだが…。

魂子がピーくんとしたいことは、きっと他にも沢山ある。けれど、普通じゃないこの状況を幼いながらに肌で感じて、我慢してる。なんせ、私に似て気持ちを溜め込んでしまう子だ。厄介なところを受け継がせてしまったものだ。申し訳なくて、ぎゅーっと、小さな娘の体をだっこした。

どんな状況に身を置いても自分を不幸とは思わない、他者から見れば砂金のような小さな一粒であってもそこから多くの喜びや幸せを見いだせる人たちはいる。強い。そういう人たちの話ばかりを聞いていると、今の状況について落ち込む自分が悪いのではないかという気さえしてくる。そうやって、自分を責めたときがあった。

心の強い人たちは、すごいと思うけど真似できるもんでもない。もともとネガ思考の人間なんだし、落ち込んだら落ち込んだでそれは仕方ないのだ。落ち込んだら、また這い上がればいい。無理してアッパーでいるよりも、私にはその方が楽だ。ゼロか100かではなく、その間にたくさんある色々なもののなかで、つかんだいいもの、ましなもの、苦いものを数えて、思い出を組み上げていく。モザイクや曼陀羅みたいに、ちょっと離れたところから振り替えって見てみれば、きっと何かの意味を成すのだろう。

魂子がいま積み上げている感情は、きっと無駄じゃない。ピーくんへの優しさは伝わってる。わかってもらえたらいいな。