うららかびより

家族のこと、趣味のこと、その他いろいろなこと

ぼくのホーム

思えばずっと、帰るところを探していたのだ。
小さい頃に関東へ移住してきた私は、大阪生まれのくせに大阪を知らない。両親は大阪と京都のネイティヴだけど、私はどっちの言葉にも振り切れないで、関東弁まで混じってしまって、とんだ訛りのミクスチャー。今ではコンビニの策略でだいぶメジャーになったけれど、小学生のころは節分の日に太巻を丸かじりすると言ったら絶句された。自分が当たり前のことだと思ってたことは、関西地方の風習だった。「けったいな」は、一般に通じると思ってた。どちらの文化圏にも属しきれない私は一体どこの人なんだ、と。ふわふわとアイデンティティを確立できないまま、年だけ食った。Jリーグができたのは、そんな時だった。
大阪府吹田市!たしかそこで私は生まれたのだ。そこに新しくサッカーのチームが出来た。もうその頃には、亡き祖父と祖母は家を引き払って同居していて、ますます形骸化していた私のふるさと。めったに名前を聞かない私のふるさと。つなぎ止めるものはもう本籍しかない。見えるか見えないかのそんなつながりしか。
第一印象は、へんな名前のチーム、だった。いまと違って、やけに顔のくどい人ばかりで、派手な割にはサッカーにポリシーがなく、下手なカウンターでコロコロと負けていた。今、優勝争いをしている浦和レッズも、似たような有り様で同じくらい重症だった。嘘みたいな、本当の話。
バイト禁止の高校生には、大阪は天竺並に遠かった。初めての万博競技場は、大学生のとき。大阪にいくたびに、言葉が違うだけでよそ者扱いの視線を浴びて、「もうここは帰る場所じゃないんだ。ふるさとなのに」と打ちひしがれてた。そんな私が、はじめて大阪という土地で懐かしさを感じた。優しく包んでもらえているみたいで、本当に、落ち着けた。
実際、初めてじゃなかったのだ。3歳まで千里山に住んでいた私は、母に連れられて、万博公園でよく遊んでいたのだという。脳の引き出しの奥に、しまわれていた幼い記憶が、とくとくと脈打って、私を暖かな気持ちにさせていたのだ。
私の帰るところは、ここだと思った。例え年に一回しか帰らなくても、ここなんだ。
それからは、サッカーを見に行けない日々が続いても、ガンバを好きな気持ちは揺るがなくなった。たまにつらい言葉を聞いたり、チャントの中でたった一つの言葉がどうしても抵抗があって言えなくて辛かったり。必ずしもいい思い出だけじゃない。ギッタギタに負かされたこともあった。そっちのほうが多かったかもしれない。好きだった選手も、首になったり移籍したりで、何人もが目の前を去っていく。
それでも残り続けたのは、何でだろう。好きだから。意味を集約させればそうなるが、その思いは無数の色からなるモザイクで出来ているように思う。
ただ一つ、言えること。それはサッカーとガンバが細胞の隅々まで染み渡って、私の存在と不可分になっているということ。ずっと寂しくてふわふわしていた私を、錨のように地上へ下ろしてくれて、たくさんの思い出や、感情や、大事な人たちや、夢に巡り合わせてくれた。この世界の崖から何度も落ちそうになった私を、救ってくれた。
今回の清水戦でピッチの上の人とスタンドの人、みんなの努力が実って勝利を手にできたのは、とても喜ばしいことだ。私自身がそこにいることができなかったのは残念だけれど。見守っていないと心配でしょうがなかったガンバが、こんなにも人の心をぎゅっとつなぐたくましい存在になったのだ。こんなに嬉しいことはない。遠く離れていても、いい方向に進んでいっているのがわかる。
もう今年は無理だけど、またあの空と地面と空気に包まれて、懐かしさをたくさん吸い込んで、肺を幸せに満たしたい。横浜スタジアム千葉マリンスタジアムも落ち着くし楽しいけれど、私のホームは、やっぱり万博競技場なのだ。ニュースをはしごしながら、そんなことを思った。自宅以外でかえってきたと思えること、これはなかなかない幸せだ。