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日経新聞連載:吉田誠一「ジーコとの4年」(1)(2)

武智幸徳氏と吉田誠一氏が在籍していることもあり、そこらへんのスポーツ新聞よりもクオリティの高い記事が読めることでおなじみの、日本経済新聞ジーコジャパンについての報道は、ブラジル戦以後も若干石が多目の玉石混交状態が続いておりますけども、今回も一歩咲き行くような良記事を、吉田氏が書いておられます。残念ながらweb上には出ていないので、大手町方面に向かって平謝りしつつ、昨日今日分を全文ご紹介することにしました。ヒステリックな報道に食傷気味の方、どうぞご覧ください。
なお、この連載は明日以降も続くようなので、気になる方は明日以降、日経4946人になってみるのもよいのではないかと思われ。この場でもできるだけ紹介していく予定ですけどね。
以下、どばーっと長くなるので、たたみます。

参考リンク

ジーコとの4年(1) 考える力 養えず
W杯の1次リーグF組で最下位に終わり、敗退した日本代表は二十三日、合宿地としていたボンを離れ、帰国する。
チームは同日夜、フランクフルト発の航空機で帰国の途に就き、日本には二十四日に到着。中田英(ボルトン)、高原(ハンブルガーSV)、小野(浦和)は当地でチームを離れる。
日本代表を率いたジーコ監督は任期満了で退任。今後、日本代表監督の後任選びが、詰めの段階に入る。

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ジーコジャパンの4年間が幕を閉じた。目標としていた2大会連続の決勝トーナメント進出は果たせなかった。この惨敗で何が浮かび上がったのか。この4年の歩みは日本のサッカーにとってどういう意味を持つのか――――。
2002年10月16日のジャマイカ戦から数えて、ジーコ体制下の72戦目を迎えようとしていた。前回王者であるブラジルとの決戦。勝利、しかも2点差以上でという追い詰められた条件となり、ジーコ監督は極端な行動に出た。
クロアチア戦後、フォーメーション練習を一切、行わなかった。試合当日まで先発メンバーを選手に告げなかった。監督は「先発も控えもなく、23人が力を結集して戦ってほしい。全員が戦うつもりで試合に集中しよう」とだけ伝えた。
主たる狙いはそこにあったが、戦術練習を省いた異例の行動の深層にはジーコ監督の揺るぎない哲学がうかがえる。同監督は常に主張し続けてきた。
「指導者がすべてを決めてくれないと動けないようではサッカーはできない。選手が状況に応じて判断を下し、思うままにプレーする。それがサッカーではないか」
だから「自由にプレーしなさい」と宣言した。どう動きを組み合わせればスムーズに有効に試合を運べるのか、個々が力を出しやすくなるのかは、試合を重ねることで選手がつかみ、自然に形は決まってくると訴えた。なかば選手たちにチーム作りを委ねた。ブラジル戦の行動は、最たる例だといえる。

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いま、その哲学を全て否定することはできない。4年前、日本はトルコ戦の敗退で、監督が約束事で選手を縛っていては世界で勝ち抜けないという認識に至った。だからこそ、選手主導でチームを作るジーコ監督を歓迎したはずだ。
監督の思想が間違っていたわけではない。監督が想定したほど、選手が自分たちで試合を進める力をつかんでいなかったと解釈すべきだろう。
今大会の初戦の84分、オーストラリアに追いつかれてから、「あとは耐えて同点で終えるべきなのか、勝ち越しに行くのかがはっきりしなかった」と選手たちは嘆いた。79分の小野の投入で混乱したとも言っている。その程度の力しかなかったということだ。監督は選手を信じ「大人」として扱ったが、自分たちで問題を解決していく真の力はついていなかった。
「選手たちは成熟はしていないが、成長はしている」とジーコ監督は話した。本当は「成長はしているが、成熟はしていない」と言いたいのだろうが、いずれにしても、そこまでしか力を養えなかったのだから監督は責任を免れられない。
だが、ジーコ式を根本から改め、再び180度方針を転換し、細部まで指導者が授けるトルシエ前監督の方式に戻すのはあまりにもあさはかなことだろう。どちらかが正解、などという問題ではない。
就任時にジーコ監督が「日本に欠けている」と考えた、選手自身が問題を打開していく力を、もっと強めていかないとステップアップはできない。そう受け止めないと、道を誤ることになる。  (ボン=吉田誠一)
初出:2006年6月24日付日本経済新聞39面

ジーコとの4年(2) メキシコ戦の教訓 生きず
惨めな敗退をしたからといって、4年をムダにしたと叫ぶのは極端だろう。だが、この1年をムダにしたのではないかという悔いは残る。

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大きな疑問がある。なぜメキシコ戦の教訓を生かせなかったのか。
2005年コンフェデレーションズカップ。6月16日の初戦で日本はメキシコに1−2で完敗した。システムは3−5−2。引き気味に構えて逆襲の威力を消そうとしたが、それによってい相手に主導権を渡すことになった。自由にボールを回す相手に走らされ、消耗し、逆転負けした。
そこで答えは出ていたはずなのだ。世界と戦うには、相手を呼び寄せて守るのは無理がある。高い位置で攻めを断ちに行き、速度アップを阻む必要がある。前でボールを奪わないとゴールが遠のく(ママ)、攻めにも労力を使うことになる。
システムを4−4−2に変え、全体を押し上げて果敢に戦った結果、次のギリシャ戦で勝利を収め、ブラジルと引き分けた。W杯まで一年。そこでもう、戦い方の哲学を固めるべきだった。基本布陣を4−4−2に固定すればよかった。
だが、その後もジーコ監督はシステムを固め、連携の精度を上げる作業に移らなかった。代表選手の多くが欧州に渡ったこともあり、試合によって召集できる選手が変わる。監督は集まった選手の顔ぶれによって、より総合力が高まる布陣を選択した。力のあるMFがそろっているなら4−4−2、集めきれないなら3−5−2。
だから、なかなか問題点が改善できない。毎回、何らかの課題が浮かび上がるのに、次の試合では振り出しからやり直す。そしてまたチームはメキシコ戦の悪夢を繰り返すことになる。
W杯初戦のオーストラリア戦でジーコ監督が3−5−2を採用したのは、より現実的になったからか。4バックの場合、CBは2人。それで守りきれるのかという懸念を打ち消せなくなったのだろう。選手も同様で、最初から引いて守った。その結果、走らされ消耗し逆転負け。メキシコ戦の再現だった。

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中田英、高原らを除く現在の主力選手たちは、2004年アジアカップ(中国)で、この受け身のサッカーを徹底して栄冠に輝いた、いいイメージが残っている。だが、それはアジアだから通用したのだ。
中国での好感触を忘れ、一年前のギリシャ、ブラジル戦をベースにした戦いを推し進める必要があった。実はアジアモードの戦い方に、高原らは「これでは守っているだけではないのか」という注文をつけている。国内組みを中心とした守備陣と、欧州組が多い攻撃陣がいわば異なる文化を備えていた。そこがまた、試合中に齟齬が生じる元となった。
チームが二つの文化を共有することなくW杯を戦った。監督は「これ」というものを固めようとしなかった。世界モードへの切り替えが成されなかった。メキシコ戦という、いいきっかけがあったにもかかわらず。 (吉田誠一)
初出:2006年6月25日付日本経済新聞34面