うららかびより

家族のこと、趣味のこと、その他いろいろなこと

このくににうまれて

いつからかなあ。日本代表を穿って見ることが当然になったのは。
ドーハの残像を背負って生きている私には、代表はあって当たり前みたいなところがあるのだ。だからやっぱり、サッカー生活から切り離して考えることは出来ない。今にして思えば、彼らはキックオフから浮ついて足はガチガチ。よく言われるカズや武田の守備的ミスがなくとも、あのとき力及ばなかったのは、悲劇ではなく必然だろう。あれからしばらくの間、国際Aマッチでとりつかれたようにショートコーナーを繰り返す彼らは、悲劇の残像から逃げたがっているようだった。誰もがあの日のビデオを奥深くしまいこみ、忘れたがっていた。そういう時期は確かにあった。
それでもあのとき、夢が壊れ心が潰れたのは本当。時の無力感は、忘れない。尊大なだけで、人の痛みを学習しきれていないクソガキが、初めて人のために泣いた晩だった。本当に私は、何の力も持たず、何もできなかった。報われたいとは思わない、ただ、ブラウン管の中の人を救いたかっただけだった。人を救う。それは画数以上に難しく、そしてなんて手の届かないところにあるのだろう。

だからガンバにしても代表にしても、できるうちにできるだけ応援するようにしてきた。死んだらしたくてもできなくなるから。生きてりゃひょっとしたら何か出来るかも知れない。出来ないかもしれないけど、それはやってみなきゃわからないのだ。全身でその気持ちを伝えること。応援ってそういうものだろう。君のためにこんなに一所懸命になる人間がたくさんいる。君にはそれだけの価値がある。だから捨て鉢にならないで、やればできるんだって。
私の気持ちが正しいとはおもわない。やりたいからやっているだけで、高邁な思想などそこにはないから。極々、ミクロな観念だ。
素直に応援できないありようのまま最終局面に突入しようとしている彼らもあれだけど、今の状況はなんだか、多くの人がこの国にまっすぐな視線を向けることを辞めたことと、似ている。予め諦めていれば、失望しないですむ。そんな感じ。こういう切り方は乱暴かもしれないけど、寂しいものがある。
ついでに書くと、ジーコさんズの負け方は、下手くそだったころのガンバに似ている。昨日の負け方なんて特にそうだ。ああ。だからほっとけないのかもしれない。こんなもんですよ。なんて支離滅裂。