うららかびより

家族のこと、趣味のこと、その他いろいろなこと

誰にでもやってくる小春日和を待ちながら

YUKIちゃんと倉持の息子さんがなくなってしまうなんて、あんまりにも早く、悲しい。最近の気候は、小さいからだには酷だったのだろう。大人たちでさえ次々と体調を悪くしていったから。
私には子供はいないけど、でもいつかは産んで育てたいと思ってる。だから「分かる」という言葉を簡単に使いたくはないけれど、でも悲しいというより哀しいとかいたほうが当てはまるかもしれない。心のおくがすーんと冷たくなっていく。小さい子が病気になったりなくなったり虐待されて歪められたりするほど、悲しいことはない。楽しい事や自分の可能性を、何も知らずに。
息子さんが生まれてから、YUKIちゃんの歌から溢れる命の力は、まぶしいのを通りこして神々しささえ感じるくらい。その力は、たくさんの人に、楽しさや喜びを与えている。そんな力を持った人はそれに相応しく報われて欲しい…これからも、ずっと。せめて息子さんの人生がなくなるまで、とても幸せに溢れたものだったと思いたい(あのお父さんとお母さんなら、きっとそうだろう)。

私は、ドラえもんでもおばあちゃんの話とか、「僕の生まれた日」とかの話に、目茶目茶弱い。延び太が余りに言う事を聴かず「僕は愛されてない」とか言うものだから、ドラえもんがタイムマシンで生まれたその日に連れて行ってパパとママが喜ぶ様子を見せる、というもの。人は生まれたとき、いや生まれる前から人の願いや気持を受けて育つ。ごく一部の例外を除けば、誰かの愛情を何処かの場面で必ず受けている。鬱になったときはそういう事を忘れがちだけれど、誰かが必ず何処かで見ていてくれている、気にかけてくれているというのはあながちうそじゃない。

ポール・オースターの「ムーン・パレス」という本に忘れられない言葉がある。オースターはクセのある話を書くから、沢山の人に勧めないけれど。彼の話はいつも父親(アメリカとダブっているのかもしれない)の喪失と若さゆえの無力と無謀(「リヴァイアサン (新潮文庫)」なんかは特に強くそれを感じる)などが通奏低音として流れている。けれど、ふっと挟み込まれる暖かい言葉に、気持ちをギュッと鷲掴みにされる。殺伐とした世の中にぽっとさく花みたいなそれは、決して強くはないけれど、たおやかでしなやかだ。

それは、こんな内容だった。

「世の中から落っこちかけた僕を、最後の最後の瞬間に何かの手が、すくい上げて助けてくれた。その何かを僕は愛と定義する。それだけが人の落下を止め、どうしようもない引力を無力化する力を持っているのだ」

それは文庫版で言うと、79ページの途中から始まって80ページまで続く記述で。どうにもこうにもたまらなくなったとき、私が居て良いのかわからなくなった時は、其処を開いて其処だけ読んでしまう。知り合いでもなんでもない海の向こうのの誰かの文章の助けを借りないと生きていけないなんて、とんだしみったれの甘ったれだけれど、生きるのを辞めるよりはるかにましだ。

この辺の主張は、「ライ麦畑」で甘ったれのホールデンが言ってた「ライ麦畑のキャッチャー」のくだりと、被っていたりもするのだけどね。

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

YUKIちゃんと倉持のまわりにも、そういう人がいると思う。私は直接励ます事が出来ないから、そういう人たちにマジでおねがいしたいところだ。
ここで思い出すのは不謹慎だけれど、新しいアルバムをまだ聞いてなかった。買わなくちゃ。

joy

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