うららかびより

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ぼくらのカピタン、忘れじのバンディエラ

神戸戦の翌日、我が家で定期購読している日経新聞スポーツ欄には、ガンバの敗戦を伝える記事とともに一枚の写真が大きく掲載されていました。そこには、神戸の選手に振り切られ、消耗し切ったガンバのカピタン、山口智の姿がありました。3年連続Jリーグベストイレブンに選ばれ強靭な体とタフネスでもってチームの最終ラインを支えてきた彼でも、こんな表情をするものなのか。そこまでチームは追いつめられてしまったのか。ほんの数ミリの表情筋の動きが、時として原稿用紙数十枚の文章よりも雄弁に、何かを語ってしまうことはあるものです。
神戸戦、勝って誰よりもいい思いをして欲しかったのは、ほかでもない、山口でした。だから余計に、その写真は悲しく見えました。
2001年、彼はジェフ市原(当時)からの期限付き移籍で、ガンバへやってきました。当時、英国プレミアシップウエストハムへの移籍交渉を進めていた、宮本の役割を引き継ぐ者として。言ってしまえば、宮本の代わりとして。ところが当時からプレミアは当時からEU外からの外国人選手の移籍に厳しく、代表での活動内容が規定に満たなかったために、労働ビザが発行されませんでした。当然、交渉は決裂。宮本はガンバへ残留することになりました。背番号5を受け継ぎながら、宙ぶらりんな立場になってしまった山口は、開幕当初はベンチに座ることが多い日々が続きました。それでも、本人の努力も有ってレギュラーポジションを獲得。豊富な運動量と気配りあふれるカバーリングで、高い負荷がかかるガンバの最終ラインを支えることになりました。ロスタイムに悪夢のような失点を重ねたあのころも、こと有るたびにネットで「西野氏ね」と短絡的な書き込みが踊ったあのころも。山口は淡々とピッチを駆けました。あの頃、ああいう書き込みをしていた輩は、今でものうのうと万博で、選手と一緒に戦ってまーす勝たせまーすって、サポ面してるんですかねえ。能天気だこと。って、ちと話が逸れましたけど。そんな風にいいことも悪いことも乗り越えて、ピッチの上で知恵と工夫をこらして戦っているうちに、山口はチームに欠かせない存在となりました。昔は、「こんなに動き回らせたら、山口が死んじゃうよー」とよくハラハラしてたのを覚えています…あ、今もか(笑)。彼と宮本、シジクレイとのトリオなくして、ガンバのアタッキングサッカーは実現しなかったとさえ思います。
思えば彼のプレイスタイルは、初の高校生Jリーガーとしてならした時と比べたら、だいぶ変化しています。今よりもひょろっとしていて、ボランチで、FKなんか蹴ってましたっけね。それがいつの間にやら、みっちりと無駄無く付いた筋肉でガツガツ守り、下平や安田の裏をカバーし、時には遠藤のFKをヘディングで相手ゴールに叩き込むように。ぐっと強靭さを増しました。ラインコントロールの方法にも、変化があったように思います。宮本がまだいたころの話。彼が警告累積や怪我の具合で出られないときはたいてい山口が最終ラインを仕切ってましたが、ラインが低くて、ボランチとの間にギャップが出てしまっていたのを記憶しています。宮本が去ってからは、彼の方法論を受け継ぐように、多少はったりをかましてでも高く保つことを意識しているように思えますね。静かに、確実に起こって行ったこの変化も、彼がガンバのサッカーの中で生きるために、少しずつこらして行った工夫だったのでしょう。
思ったよりも早く、ピッチ後方で大きな存在感を放っていた宮本の影を払いのけて、前向きになれたのも、彼がいたから。単なる宮本の代わりではない、山口が彼らしくラインを仕切ってくれたからでした。そして箸にも棒にもひっかからない北摂のお人好しボンボンみたいだったチームが、リーグで悪戦苦闘する合間に広いアジアを駆け回ってやがて頂点に至ったその過程は、宮本のかわりとしてやってきた彼が、ほかの何者でもないアジア一のカピタン、僕らのカピタンになるまでの、長い長い道のりでもあったのです。
山口と宮本…節目節目でその道のりをリンクさせながら歩んできた二人のCBは、9月再び万博で相見えます。宮本相手におとなしく勝ち点6を献上するなんて、悔しいったら無い。僕らのカピタン、そして僕らのガンバが鮮やかに逆襲してくれることを切に願います。30代を迎えた二人が、今度はいいライバルとしてピッチの上でやりあうことで、またお互い高め合ってくれたら言うことなしです。
そのためにも、まずは今宵のFC東京戦をしっかり戦ってもらわないとね。私は都合でテレビ観戦もままなりませんが、いい結果が聞けるよう願っています。フォルツァ、カピタン。