うららかびより

家族のこと、趣味のこと、その他いろいろなこと

信頼と過信と愛情とを

ごっちゃにしてると、よそとの距離感が図れなくなってくるし、ついには自らのアイデンティティをも見失う。そんなような苦い思いを、最後に怒涛のごとく立て続けに感じたシーズンだった。この重層化した複雑な気持ちは、へんな例えだけど黒こげになったミルフィーユのようだ。
西野政権の、二年目をぼんやりと思い出す。優勝してからのガンバを知らない人には申し訳ないけど、むしろガンバは、こういうチームである期間のほうが多かった。人や選手がかわってもかわらないもの。どうせならもっといいことを伝統にしてほしいもんだ。勿論ここ数年で、ポジティブな伝統が生まれつつあることも忘れてないけど。「今年降格争いをしてる広島には、さすがに勝てるだろう。5人もいないんだし…」そんな根拠のない楽観が、無かっただろうか。試合をするからには、勝つ可能性と同様に負ける可能性もまたはらんでいることを忘れてはいなかったろうか。
戦犯などいない。強いてあげれば全員。髪の毛切った後、日本橋と銀座で呑気かつチャラチャラと買い物してた*1私も含めて。実際のところ、私がが責任を背負おうと何も代わらないのだけど、ボリス・ヴィアンの小説に出てくる「心臓抜き」、あれを使われたようなこの脱力感は何だろう。同じことを繰り返して、他サポーターやマスコミに存在そのものを足蹴にされて、アウェイでなかなか勝てなくてスタンドがどことなく荒れて…そんな負のスパイラルから、自分の力でようやく脱出したのでは無かったのか。
暴論だけど、今日出た選手は遠征した人に謝れ。大阪まで這って帰れ。大いに悔しがれ、自分たちがつり逃がした魚の大きさに。これでメシ食ってるなら、切り替えて誇りを持って国立まで挑め。2位や3位のチームがどこか覚えてくれてるお人好しなんて、滅多にいないんだよ。わかってくれよ。向かうべき相手はまず目の前、そして自分の内側にいる。よそのスタジアムで試合やってる人たちじゃない。それを忘れてくれるな。
しかし監督が頑固であること以外は、全く違う指向のサッカーをしている浦和とガンバが、最後に同じように息も絶え絶えなまま終わったのは、不思議な感じ。水曜日におきたジャイアントキリングを知ったときは、「明日は我が身」のように思えてあまり笑ったり茶化す気になれなかった。それだけACLを生き残ることは過酷なのだ、と痛感すると同時に、いまのJには成熟したクラブが存在しないのだと思えて悲しくなった。未熟や青さは、時として本人以上に周りの人間を傷つけ、苦しめる。「それでも好きだ」という言葉が、昔のサザエさんみたいに喉元でつかえて、ウンガッフッフとなってるのが、今だ。
青き炎は、赤いそれよりも熱く、激しい。そういうところを来年、いや、来週は見たい。私の声がそのために役に立つなら。いくらでも張り上げるさ。
サッカーや自分自身に絶望するな。いや、捨て鉢になって自分を投げ捨てても、何回だって拾い上げてやるとも。今日広島に行った人たちは、皆さん私の知る限りそういう気概をお持ちだ。金を仲立ちにした選手と客の関係を超えて、君たちに手を差しのばそうという人たちの存在を忘れるな。

*1:大丸東京店のかわりぶりにビックリ