うららかびより

家族のこと、趣味のこと、その他いろいろなこと

守れなかったものはすべて冬の歩道で思い出して

久々にどうしようもなく自己嫌悪に陥って、ブログからもミクシィからも距離を置いてみたけれど、やっぱり文章を書いているほうが発散できるし気がまぎれるから、戻ってきてしまった。或いは単に、中毒なのかもしれない。
トリガーとなった出来事は、やっぱりあれだ。あの名前をミクシィで見つけたからだ。普段はあまり人に対して、嫌いだとか近寄りたくないと思わないので、いざ自分がそういう気持ちを持ってしまうと、汚いごみを内側に溜め込んでいるみたいで、いやになる。
「7月24日通り」を読んで、一番ぎくりとしたのは「目の前にいる人間の顔がちゃんと見えているか」というくだり。ネット上で、たとえ顔が見えなくても、見えるようになってからも、それぞれの人に丁寧に接してきたつもりだけど、ひょっとしたら相手の感情を、自分の都合のいいようにだけ解釈して、実は相当酷い事をしてたかもしれない。実際、どんなに長いこと親しく付き合ってきた友達でも、たった一言、気に入らないことを言われるとさめてしまう事がある。酷薄だなあと、自分でも思う。
別の友達が国家試験に通ったときにはお祝い会を開いたのに、私が就職に困ってあえいでいたとき、助けを求めてもおためごかしなことしか言わずに励ましも無かったとか。困っているとき何度も助けたことはあっても、逆は無かったとか。結局昔の私は、無意識のうちに与えた分だけ見返りを欲していたのだと思う。だから、そういうネガティヴなことばかりを、やけに覚えてるのだ。してもらってうれしかったことが、あったはずなのに。審判のジャッジと同じか。
サッカー抜きでどれだけの人と、本当に友達関係を結べていたか。考えると自信が無い。この年になって、誰かの結婚式に一度も呼ばれたことがない。ご祝儀を払う能力が最近まで無かったし、当時は叔母や祖母の死が続いたこともあって、誘われても結局断らざるを得なかったから、結果的にはいいのだけど…。裏を返せばその人の中でプライオリティが低い関係しか、結べていなかったということなのだと思う。呼ばないなら呼ばないで、一言ほしいけど…きっと新しい交友関係においては、私は都合の悪い存在なんだろう。そういうことにしておく。 或いは、私自身が何かまずいことをしたか。だとしたら気づいてない方も悪い。
30を過ぎたら、新しい交友関係を築く機会は少なくなっていく。10代20代で得た関係は、大事だなと思う。それなのに、一人でいるのが楽だと言うだけで、私は私に好意を持ってくれてる人を、わがままに蹴散らしてきてしまった。意識的かそうでないかにかかわらず。気がつくと、好まなくても一人になっていた。遊びの誘いなんて来なくなってしまったし、私の方から状況をきくことはあっても、逆は無くなってしまった。それでも、黙ってたのは嫌われるのが怖かったから。人に好かれることはすばらしいことだけど、すかれようと思って媚びるのは違うと、番長さんのラジオで八名信夫さんが言ってたっけ。私はずっと媚びていて、そのくせちょっとのことですぐ人にいらっとなってた。それを押し殺して、いいひとぶってた。それは今の職場でも同じだ。結局は、「友達のいない人」というレッテルを貼られるのが、怖かっただけだったんだ。まず自分ありきじゃない、人の反応こそ全てだったんだ。
いきなりすべてがやり直せるとは思わないけど。せめてこれから、そして今付き合っている人たちは、顔と相手の気持ちをちゃんと考えながら、話をしたい。大勢いる友達の一人じゃなくて。一対一で。どうすればいいのかという不安もあるけど、手探りでやってくしかない。それしかない。或いはもっといい方法をみつけるとか。うむ、迷走ではじまって、迷走に終わるのだな…。

Lifetime

Lifetime

このアルバムに入ってる「望みの彼方」って曲を久々に聴いたら、たとえようも無くしんしんと沁みた。